神楽坂 震災復興支援サロン2016

■目的
被災地の現状を知る(忘れない)ようにします。
神楽坂に関わっている人が、東北や熊本でどのような支援活動をしているか、情報交換します。
被災地の人から見て、神楽坂に何を期待するか、どのような交流を希望されているか、伺います。
神楽坂にいる私たちで何ができるか改めて考え、できるところから実行する機会とします。
■場所 : 高齢者福祉施設神楽坂 1階 地域サロン
■日時 : 2016(H28)年10月30日(日曜日) 13:00 – 17:00
■プログラム
(1)交流サロン
パネル展示 13:00 – 17:00
神楽坂関係者が被災地で活動した内容や現地の状況(写真、図表、ポスター等)の展示
(2)トークセッション 14:00 – 16:15 被災地の現況、復興支援活動レポート
司会:真壁希生
1. 保坂公人(五十音設計)
「東北被災地の今」
2016Fukko_1
2011 から毎年東北の定点観測をしており、その様子を動画7 分にまとめた。内容の一部は、本日配布の環境緑化新聞に書いている。また、一面は熊本被災地の報告となっている。(動画紹介)
定点観測の感想として、津波によってまちが壊滅し、その後復興しない理由は産業が再生されない、来ないことに尽きる。まちづくりとして進めようとすると、土地所有者の合意が必要となり、時間がかかりすぎる。
女川は、まちが完全に造り換わったが、人口はどんどん減っている。駅前の商店街は目新しくできているが、休みの時くらいしか人が来ず、観光化している。これからどうなるのか。これからも定点観測を行い、報告したい。

2.熊谷友花(明治大学大学院)
「岩手県陸前高田市における仮設住宅の現状 - ヒアリングとアンケートを通して-」
2016Fukko_2
明治大学の研究室活動の一環として、陸前高田の復興支援、仮設住宅調査を行っている。震災から5 年半経って、仮設から本設へ移行しつつあるが、行政による整備と住民の声のギャップが大きいと感じる。住民は、物質的なことではなく専門家が持つ技術、サポートを求めている。
陸前高田では、今でも仮設住宅に3,000 人が住み続けている仮設住宅の使用期間は本来2 年であるが、5 年以上経ってもまだ多くが使われている。小学校の校庭に仮設住宅があり、子どもたちの教育の場が失われている状態が続いている。一方、5 年半が経過して仮設住宅に空室が多く生じ、自主再建も進みつつある。
2016 年夏に4 大学で仮設住宅調査を行った。その結果を報告する。
866 戸にアンケート配布し、任意に回答いただいた。ストレスを感じる原因のうち、最大のものは仮設での暮らしの長期化である。自分や家族の健康に不安がある、ご近所づきあいに気を使う、荷物が増えるので部屋が狭いなどが上位であった。今後の暮らしの不安としては、健康や医療の不安、経済的な問題、住宅問題、介護が心配など、高齢者の意見が多数あった。自分には未来がないのでどうでもよいという意見や、再建されてもやってける自信がないという意見もあった。
自治会長にヒアリングした結果として、仮設住宅を出ると高齢者がひとりになってしまう、今は同じところに住んでいるひとが今後は同じところに住めないことが心配とのことであった。災害公営住宅の入居率は、半分程度であるという。
一方で、高齢の被災者の意見として、生きていることのありがたさを感じたというものもあった。当初は、何でこうなったのかと思ったが、今は震災があったことで地域の絆が強くなり、新しい体験や新しい出会いがあり、震災のメリットもあったというものもあった。一時避難場所がもっと広く高いところにあれば、より多くの人が助かったであろうという意見もあった。
ある被災者から、「津波や地震が来ないと思っている人がいるが、絶対に来るので、用意きちんと備えをして欲しい。これを人々に伝えて欲しい」と言われた。今日お伝えできてうれしい。
本設については、今泉や高田地区(かつての中心市街地)は現在造成中で、まだ誰も住んでいない。高台移転は一部できており、米崎地区や山麓部の一部では商業施設などがオープンしている。土地造成が終わっていないので、これからどこに住むかも決まっていない人もいる。同じ陸前高田でも、地域によってかなり差がある。中心部は2018 年オープンとされているが、実際には難しいのではないか。

3.松村治(早稲田大学総合人文科学研究センター)
「心のケアからウェルビーイングの向上へ-避難者支援におけるパラダイムの転換- 」
2016Fukko_3
来年度で自主避難者に対する住宅支援が終わることになっている。
被災者支援の中心は「心のケア」であることとされてきたが、パラダイムの変換期になっている。
心のケア、PTSDという言葉が新聞に使われた数は、阪神大震災前はごくわずかだったが、その後大幅に増え、社会的な認知度が増している。急性ストレス障害が1ヶ月以上続くとき、PTSDという。
心のケアには、ケアする人にも多少なりとも優越的な気分を与えるということがあり、社会全般に心のケアという言葉が広く使われるようになってきた。心のケアには「病気モデル」、「氷山モデル」があるが、いずれも一部の人しか対象としない。
これからは、心のケアとは違う、ウェルビーイングを知り、その増進が重要だ。ウェルビーイングとは、その人自身が感じる心の健康状態であり、感情面と活動面がある。東雲住宅の避難者と他地区でウェルビーイングの調査をした結果、東雲では低い結果であった。ウェルビーイングが低いとつらい、意思決定しにくい、引きこもり、ストレスが溜まるなどがあり、さらにウェルビーイングが低下するという悪循環に陥る。
ではどういう支援が必要か。パラダイムを転換して病気モデルから健康モデルへ。避難者全体の状態を把握し、避難者自身が回復に向けて努力することを支援することが必要である。
新しい支援の試みとして、まず個人に対して実態調査を行い、アドバイスを付記して返送している。希望者には説明し、ライフスタイル改善助言も行う。自然と触れ合うこと、地域と係わり一員となることが有効である。専門家だけではなく一般の支援者が係わる余地が大きくなる。心のケアではなくウェルビーイングを高めることを目指すことが肝要である。

4.大坊雅一(東雲の会事務局長)
「東雲住宅の被災者の今の状況と課題」
2016Fukko_4
まず、皆様の支援に感謝したい。
現状と課題として、プラスの面と負の側面がある。
豊洲、東雲という場所には、発災後5年7ヶ月を経て、もう慣れている。便利な状況が日常となっている。東雲はあまりにも利便性が高く、満足度が高い。そのため、ここから離れたくないという人が多く、自立が遅れる要因となっている。以前は複数世帯で同居し窮屈な思いをしていたが、今は世帯毎に一部屋ずつ入居しているので、世代間の摩擦が起きにくい。
東雲の住宅タイプには1K, 1DK, 3DKがあり2DKはない。1K, 1DKと3DKの差が大きい。バス、キッチン、収納など全て違う。
まもなく、自主避難者に対して住宅支援の終了時期を迎える。再同居、別居、ひきとり等々様々な選択肢があるが、なかなか決めきれず、先送りしている人が多い。東雲での高齢者の日常生活として、福島にいた時よりも家族への依存度が減っている。福島ではどこにいくにも家族に車で送ってもらう必要があるが、ここでは通院、買い物、図書館、プール、温泉などが徒歩で利用が可能であり、自分の意思でいろいろできる。この質の高い生活があたりまえになり、いろいろな支援で人と接する機会が増えて明るくなった。帰還したら逆の状況になるのではと心配される。
子育て世代も生活の質が異なっている。福島では、どこへ行くにも遠かったのが、ここでは近いところにいろいろあるので便利である。しかし、子どもたちだけで遊べる場所は少なく、特に自然環境に触れる場所がない。住宅のエントランス近くで遊んで管理人に怒られることがある。 
小中学生の状況としては、スポーツクラブ、図書館、学童、塾など活動の選択が多く、質が高い生活ができる。進学の選択の幅も広いが、広すぎてそれがストレスになり、負担に感じる人もいる。中高生では少し対応に問題あるが、小学生では問題は少ない。
 ここでは情報の入手が容易であり、その情報を取り入れて生活に活用している。一方、情報過多で悩ましい、贅沢なストレスという面もある。
住宅支援が終わったらどうなるか。東雲は本来は国家公務員宿舎であり、支援はいずれ終わる。退去するのであれば早いほうが良いのではないか。最近、市場問題が生じているが、あこがれの豊洲である。避難生活はただではないが、それをややもすれば忘れて、あたりまえと思ってしまう。
将来の生活はまだ見えない。三陸は食の支援があり、地元産物を食べて支援するという方策があるが、福島ではそれはない。先日、浪江町庁舎で復興に向けた会議があり、役所、地元銀行などが出席しており私も参加した。町の人口想定として、2031年に8,000人という数字が示されたが、根拠が不明で、男女比や年齢構成は示されなかった。そのような状況である。かつて町の中核にあった民間病院は町内での再建を断念した。小中学校再開に向けて、有識者会議が始まった段階である。
町としてはインフラ整備からやっており、自宅は今月に水道再開された。町の中心部にあるが、70件の木造住宅のうち残るのは私の自宅1件のみである。ほとんどは更地になっており、町は基盤整備はするがそれだけで暮らしができるわけではない。住民は、建物を壊し、東京や県内などに住居を求めて移り住んでいる状態である。
(発表後の、会場での意見交換)
 これから浪江に戻って暮らせるかといえば、浪江だけでは難しい。仕事、教育、医療、買い物、娯楽など、あらゆるものが不足している。その解決案としては2地域居住が考えられる。しかし、行政的には住民票、税金(住民税や固定資産税)、選挙権などの課題があり、行政がその解決に向けて乗り出すとは思えない。道路や水道など基盤整備ができれば住めるということではない。東電との補償問題は個別に行われており、決着した人も出てきているので、帰還するかどうかは個々の住民の判断ということになるのであろう。

(休 憩)

5.三浦祐子(一社 気仙沼風待ち復興検討会サポーター)
「気仙沼の被災文化財建造物、再建始まる」
2016Fukko_5_1
今日は、本来は夫の卓也が出席の予定だったが、出張のため代わりに発表させていただく。神楽坂の住人であり、今はなくなってしまったが「神楽坂まちの手帖」の編集をしていた。
気仙沼は内湾に面した美しい景色が魅力的で、内湾に面した地域に大正から昭和にかけての和洋多彩な歴史的建築物があり、いくつかは国登録文化財となっている。その多くは被災し、失われてしまった。
風待ち復興検討会は平成24年5月に設立された。以前から歴史的建築物の研究会はあったが、そこからの人はひとりしか残らなかった。復興を目指して募金してもぜんぜん集まらず、市の都市計画と調整しながら歴史的建築物活用検討、モニターツアーなどを実施してきた。

2016Fukko_5_2

国内外の民間企業や財団からの寄付も受け、残された文化財の応急措置、移築などを実施し、とりあえず敷地をきれいにしてきた。引き続き修復保全に向けた募金活動等実施している。また、一関、千厩と内湾地区を結ぶツアーも行っている。
今年、いよいよ文化財の再建が始まった。市指定文化財に指定し、建築審査会の同意を得て、建築基準法の適用除外を受けて実現した。足りない再建費用は、区画整理の再建補償金を文化財に配慮したかたちで利用する。また、津波で流失した部材は、他のところで保存していたものもあり、それを利用できた。
 こうして、まず角星商店が、区画整理内で再建された。文化財を核に先行着手したものである。区画整理地区内に中層で約100世帯の復興住宅1棟が新築された。角星商店はいったん解体され、盛り土の上に再建されたもので、意匠としてかつての壁仕様や木造軸組、小屋裏などを見せている。再建が始まり、ふるさとの風景が戻ってきた。あと3棟再建予定だが、2000万円不足しており、引き続き皆様のご支援をお願いしたい。

6.鈴木俊治(ハーツ環境デザイン代表・NPO粋なまちづくり倶楽部)
「原発及び津波被災地域の現況~福島県太平洋沿岸の町」
2016Fukko_6
 今年8月に原発事故被災地である福島県浜通りから宮城県沿岸地域、富岡町から山元町を訪問した。被災地の現況をご紹介したい。
 帰還困難区域では、立ち入りが禁止され、地域の南北幹線となっている国道6号は通れるがそれ以外は一切立ち入りできない。被災した建物、かつてにぎわっていたと思われる商業施設などはそのまま封鎖され、荒れて草ボーボーの状態になったままである。
 居住制限区域では、富岡駅付近は除染、鉄道施設等の解体などが行われており、汚染物質を入れたトン袋が大量に野積みされている。新築であった住宅が津波で大破し、そのままの状態になっているものもあった。
浪江町では、通行は許可されているが歩いている人は皆無で車もほとんど通らない。非常に静か。駅前では一部解体工事などが行われていた。これらの地域では復興には程遠い状態である。
 福島県北部沿岸の新地町では、原発被害はなく、津波被災地で常磐線の移設と高架化、駅および関連施設の建設が進み、おそらく区画整理による土地造成が行われ、新しい役場や集合住宅がほぼ出来た状態。その北側の宮城県山元町、新坂元駅周辺では区画整理が完了し真新しい道路と戸建新築住宅が並んでいた。保育園や子どもセンターが開所間近な状態で、若い母親とこどもたちが公園で遊ぶ姿が見られた。新地町の内陸にある木造の仮設住宅は、だいぶ空室が目立ち、また建物や施設の老朽化も顕在化している。
 全体的には、津波被災地はさまざまな課題を抱えながらも復興が進んでいるのに対し、原発被災地は特に帰還困難地区は全く見通しが立たない状態。居住制限区域や避難指示解除準備区域でも、すんなり住民が帰還するとは到底考えられない。震災から5年半を経て、被災当初とは問題が変質し、複雑化している。

7.寺田弘 (NPO粋なまちづくり倶楽部)
「南相馬市小高地区避難指示解除の町を訪れて」
2016Fukko_7
小高地区では、避難指示は解除されたが帰還した人はごく一部、10,000人中300人程度である。放射線量は低下している。
地震発生時に幸運にも助かり、今は観光ボランティアガイドをしている人の話を聴いたところ、帰還勧誘の難しさを語ってくれた。居住ソフトに問題が多い、介護ができない、井戸が壊れている、下水道も壊れている、予算ありきで住民のマンパワー不足などの問題がある。
市長は精力的に復興施策を打ち出しており、悩むより行動というタイプ。野馬追い、火の祭りなどを復活させ、みらい創造塾、農業復興チャレンジ塾、復興大学などを行い、市民やNPOの提案の実行を支援している。
道の駅の裏、公園の隣地に仮設住宅を建設し、住民の利便性向上を図った。また、イオンが進出したところ、その周りに復興住宅を建設した。高見公園ではNPOのアイディアを生かして整備運営し、市もサポートしている。
個人商店の営業努力も様々になされており、カフェ、寿司屋、魚屋などががんばっている。寿司屋は、かつて872mの海苔巻きをつくりギネス記録であったが、その後ロシアに抜かれた。
和田智行さんというユニークな人がいる。東京でITの仕事をしていたが地元の小高に戻った。復興には新しい事業、雇用が必要ということで、外部の人と地元の人のコラボで即興的に実践している。ハリケーンで大被害を受けたニューオーリンズを視察したところ、そこでは起業が生まれて、資金を募集していることに触発されたとのこと。小高でそれをできないかと考えて活動を始めた。地域にはそういう人が必要である。
 東町エンガワ商店という店があるが、最初ラーメン屋を借りて食堂を始めたところ成功し、それを他人に譲ってコンビニに近い形態で仲間と経営している。一つの成功に固執せず次の人が出てきたら譲っている。和田さんが主宰する小高ワーカーズ事務所はビジネスを生み出す事務所であり、雇用創出を第一としている。
ガラス製品の販売をしているが、自分たちで吹いてつくり稼げないかと考えている。ここから新しいビジネスを生み出すことを期待している。お祭りやイベントも、ひとつの事業体だけが実施するのではなく、たくさんの人が参加するしかけをしている。
ジェイン・ジェイコブスは地域をひとつの単位として考え、そこで即興演奏improvisationが起こることの重要性を指摘しているが、ビジネスやコミュニケーションを劇的に変化させ、「創発」を生みだす、複数のものが混じりあうことが大切だ。神楽坂のまち飛びフェスタもそのようなものであろう。彼はそれをビジネスとしてやっており、大変な実験である。このあとも関心を持って見ていきたい。

■司会
 発表者の皆様、大変ありがとうございました。活発な意見交換ができました。このサロンに何回か参加してきましたが、報告の内容がだいぶ変わってきたと思います。自立、創生、企業や経済の創発というお話がありましたが、そういう時期になってきたのかと思います。私自身も、よい学びになりました。皆様今日はありがとうございました。この後まだしばらく時間がありますので、パネルを見ながら、意見交換、懇談などしていただければと思います。

【おわりに】  鈴木俊治 (NPO法人粋なまちづくり倶楽部副理事長、本サロン担当責任者)
このサロンは今年で5回目になる。世間では震災復興に関する関心が低くなり報道も少なくなっている。その間、防潮堤は地域での合意が無く新たな環境破壊を生み出しながら、また守る人が誰もいない場所であっても、一度決まったからという理由で、将来に対して無責任体制のまま建設され続けている。福島第一原発は今日でも廃炉に向けて明確な道筋が見えないまま格闘が続いているなか、政府は原発再稼動や海外輸出を推し進めている。避難者の生活再建は個人マターとされつつある。このように震災後5年半を経て多くの問題が生じ顕在化している。そういうことに市民ひとりひとりが目を向ける機会として、このサロンを続ける意義があると考えている。

2016Fukko_8_3
2016Fukko_8_2
2016Fukko_8_1

2016Fukko_8_5
2016Fukko_8_4

2016Fukko_8_7
2016Fukko_8_6

2016Fukko_8_8