神楽坂 花柳界入門

連続講座
~花柳界から学ぶ”おもてなし・しつらえの文化”~ 花柳界入門

連続講座
~花柳界から学ぶ”おもてなし・しつらえの文化”~ 花柳界入門

“江戸の粋”を残すまちとして、近年メディアにも頻繁に取り上げられる神楽坂ですが、ここ数年、江戸・明治時代からの老舗や料亭が次々姿を消しつつあります。
 しかし、かつては何十件もの料亭と何百人の芸者衆であふれ、花柳界文化が花開いた土地だったのです。その隆盛期は終わっても、そこで育まれた”粋”な文化は、石畳の路地や店の佇まい・しつらえ、そして何より、まちの人々の暮らし方、心意気、おもてなしの心などに「見えない遺伝子」として静かに受け継がれて、神楽坂の魅力をいまも底辺で支えております。 こうした花柳界が元気でない限り、神楽坂は本当の魅力を保ち続けることができませんし、それはまた、日本人がいつまでも忘れずにいたい伝統の文化、”おもてなしの心””しつらえの作法”を次代に伝えることにもつながると考えます。そこで、粋なまちづくり倶楽部では、花柳界がこれからも新しい時代に合った形で生き続けるために、花柳界応援プロジェクトを立ち上げました。その一つとして始まったのが、広く皆さんに花柳界を知り親しんでいただくための連続講座「花柳界入門」です。

講座レポート

第5回 三味線の師匠から教わる“花柳界入門”

花柳界を学ぼうという人気講座も第五回目となり、今回は知っているようで知らない「三味線音楽」についてです。

第一部は東京神楽坂組合理事長・澁谷信一郎氏が、邦楽史の中の三味線にスポットを当てながら、江戸時代から町人の庶民音楽として盛んになったその歴史を解説。

大きな二つの流れである「唄い物」と「語り物」が、それぞれ長唄・端唄・俗曲と常磐津・清元・新内などへと発展していった経緯について、時々は思わぬ方向に脱線しながらのお話が、場内の笑いを誘っていました。

第2部に移り、長唄三味線の演奏家である東音宮田由多加氏が、三味線の天神・棹・上駒・音緒など聞き慣れない各部名称とその構造について、最初に細かくお話しされました。

16世紀に沖縄からの伝来時には蛇の皮であったのが、時を経て猫のものになったという歴史解説に続き、「三味線は弦楽器であり打楽器でもある」という説明に思わず納得。その他、本調子・二上り・三下りと調弦を変えれば音は派手にも地味にもなること、曲により駒の高さを変えるデリケートさが三味の音の身上だということなどを知りました。それにしても気持ちの良い音色が奏でられるものです。

切っても切れない長唄と歌舞伎との縁についてや、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」に越後獅子の一節が出てくるなど、知られざる裏話もして下さいました。

第3部はお待ちかねの演奏です。最初には一中節・浄瑠璃方の都了中氏が代表曲「猩々」。なかなか耳にすることのない一中節ですが、日本の伝統芸能がこのような若い方に脈々と引き継がれていることを、心から好もしく感じました。

長唄「越後獅子」は、宮田師とお弟子さんの二挺三味線に唄い方という構成です。お馴染みの「牡丹は持たねど越後の獅子は~」というサワリの部分が心地良く、思わず自分でも口三味線が出ていました。

さて舞台は一層華やかに変わります。ぼたん姐さん、てい子姐さんが、そのキャリアを感じさせる常磐津・清元・端唄・俗曲・小唄を次々に披露。粋な神楽坂芸妓の心意気が伝わってきます。端唄の撥弾きが小唄では爪弾きとなることで、グッと趣が変わるのがわかりました。

最後は若手で艶やかに。涼也さんと英子さんによる春らしい舞が三曲。神楽坂期待のお二人が、これからの花柳界を盛り上げてくれることでしょう。

邦楽器の魅力を知る上でとても興味深い講座となりました。冷たい風にも春の匂い。恒例の「神楽坂をどり」ももうすぐです。

(2008/03/01 モニター:神楽坂がん子 )

第4回 鳴物道具の作り手と演奏者から教わる“花柳界入門”

今回はお座敷には欠かせない太鼓などの「鳴物道具」に焦点を当てた花柳界入門講座です。実は私自身も土師流・松本源之助師匠に師事したことのある太鼓奏者の一人として、この催しにはとても興味を持っていました。

最初の部で宮本卯之助商店の宮本社長からは、雅楽・能・歌舞伎の文化とかかわる太鼓の歴史のお話に続いて、鼓の芯部である胴を持参されて披露。漆や金箔が美しく施された職人技の輝きが目を引きます。
作品に名を入れることが許されなかったので、胴の内側に鉋目(かんなめ)を入れることにより誰の作品かが判るようになっているという説明に、誇り高い職人の心意気を感じました。
宮本社長はお仕事柄の研究家というより、もともと学者タイプの方とお見受けしました。大好きな邦楽とそれにまつわる文化までにも興味が尽きなく、終始楽しそうに話される姿がとても印象的でした。

第2部では邦楽囃子方の望月左之助師匠とお弟子さんの左京さんが、見せて聞かせての熱演。皮と胴から鼓を組み立てるところは私も初めて拝見しました。耳と指先で紐を操る高度な技は思わず私たちの目を奪います。そしてその抜けるような音の素晴らしいことといったら、もうストレス一発解消の心地です。
私の師匠は、「太鼓は誰が叩いても音が出る。だからこそ良い音を出すのは難しいんだよ」とよく口にしていました。左之助師の透き通るような鼓・太鼓の音色は、キャリアを重ねた熟達者だけが出せる胸に響くものでした。
歌舞伎の下座での効果音として水・波・雨・風・雪・雷などを表現する太鼓奏法には、思わず舞台の情景が目に浮かびます。師弟のユーモア溢れるやり取りに、会場も和やかな空気に包まれました。

最後は左之助師匠作曲の「音でつづる神楽坂の四季」を、舞台上の艶やかな9人の芸者衆が様々な鳴物で奏でます。眞由美姐さんの粋な男踊りが見事に締めくくってくれました。芸者衆は多忙な中を一年かけてお稽古されたそうですが、神楽坂花柳界のテーマミュージックとして、これからも度々ご披露いただきたいものだと思いました。

終りに東京神楽坂組合の澁谷理事長との対話中で、「日本人が能・歌舞伎・文楽など日本の伝統文化を紹介できないようでは情けない」との宮本社長の弁はごもっとも!伝承される文化を大切にしながら新しい文化を取り入れることの重要さを同感しました。時代の流れに翻弄されることなく、いつもそんな文化的な粋さの残る神楽坂でいて欲しいといま改めて思います。
会場から出できたお客様の満足そうな笑顔が、梅雨の晴れ間に輝く午後の毘沙門天でした。

(2007.06.23   モニター:神楽坂がん子)

第3回 芸者衆の付き人「箱屋」さんと幇間さんから教わる“花柳界入門”

2007.02.10(土)花柳界入門講座も第三回。
今回は、二部構成にて約3時間の講座となりました。
ちょっと長丁場でしたが、東京神楽坂組合理事長の澁谷信一郎氏の小粋で洒脱な司会で、足の痺れや腰の痛みも気づかなかったのではないのでしょうか。<第1部:最後の「箱屋」が語る”花柳界の表裏”と芸者さんへの着付実演披露>

 

東京浅草組合事務長、千葉慶二氏は、箱屋特有の徒弟制度で修行した最後の方であり、当時の「箱屋」の仕事のひとつである「芸者さんへの着付け」もされることから「最後の箱屋」と呼ばれています。この徒弟制度のことを「内箱制度」といいます。置屋に所属し、その置屋のお姐さんについて仕事をする制度です。先輩の仕事を引き継いでいくという修行を経て、浅草組合への所属となります。

■箱屋さんとはどんな仕事をするのでしょう?
箱屋の「箱」、これは三味線を入れる「長箱」からきており、それを移動させることから、その名前となったそうです。箱屋さんの仕事は、芸者さんの身の回りのお世話することが仕事です。それは、今回、お見せ頂いた着付けであったり、後口(あとくち)への移動の交渉など、多岐に渡ります。
今では、人件費削減の要請から「自分でできることは自分でしよう」ということで、箱屋さんの数も減りました。そして「着付け」までされる箱屋さんは千葉さんひとりだけになりました。 昔は、「110番の前にまず見番」というほどで、不審者はもちろん、釘打ち、ゴキブリ退治など、なんでも見番へ連絡がきたそうです。でも、こういう日常のつながりがあってこそ、いい仕事ができるのが、この世界です。

■着付けをするにあたって・・・・。

いつもなら、気心を知れた浅草芸者さんの着付けですので、何も聞かずに仕事をする千葉さんですが、今日は、神楽坂の万りさん、初めて着付けをすることになります。ですから、今日は、具合を聞きながら着付けをしていきます。
着付けで大事なのは「気持よく着られること」、芸者さんは、長い時間着物を着、動きますので、動きやすく、かつ、着崩れないことがポイントです。そのために、下地をしっちりと着付けるそうです。下地がしっかりしていたら、さほど帯は締めなくてもよいと千葉さん。

<第2部:浅草だけに残る”幇間芸”を楽しむ>

昔は、神楽坂にも、そして全国にいた幇間さんは、現在浅草に4人しかおりません。全国に4人しかいない(ということは世界にも4人!)幇間さんのひとり、櫻川米七師匠にお越し頂き、神楽坂は毘沙門天の舞台にてその芸を披露して頂きました。18歳の美しい女性と100歳の美しい女性、といった仕草モノ、そして名古屋甚句といった歌モノに、会場の笑いは途切れることがありませんでした。
実は、カセットデッキが不調で、名古屋甚句は師匠のアカペラになってしまったのですがそれすらも笑いとされておりました。■幇間さんって?

 
男芸者や、たいこもち、とも言われ、お座敷を盛り上げる芸人さんのことです。芸者さんのことを三味線を持っていることから「ネコ」と呼ぶのに対し、幇間さんのことは「たぬき」と呼ぶそうです。

一時、幇間さんはどこで仕事をするのだろうという悩ましい時期もあったそうですが、今は、幇間さんを呼ぶ御座敷も増え、またイベントなどで、その芸を披露されているとのこと。

「たいこもち」というとヨイショ、おだてる人の意味ですが、もちろんお座敷の御客さんを上手に褒め上げるのも芸です。師匠の「やっている自分も楽しく」という言葉が印象に残ります。*浅草花柳界(組合の公式HP)

http://www.gnavi.co.jp/asakusa/index.htm
*浅草芸者(所属の芸妓さんが作成)

http://www.asakusageisha.com/

<付記>

今回の講座、東京都料理生活衛生同業組合の組合長、東京向島組合の事務局長、そして赤坂の御姐さん方、も観覧されておりました。今年の4月、国土交通省の「Visit Japan」の一環で、赤坂芸妓衆がワシントンで開催される桜まつりに参加が決定したそうで、その頃のニュースは注目です。

第2回 神楽坂料亭女将と芸者さんから教わる“花柳界入門”

2006.06.10(土)
 前回大好評でした“花柳界入門”今回も満員御礼状態で早くも人気を確立したようです。トークショーのゲストには、神楽坂料亭「白宮」と「牧」のお二人の女将さんと、東京神楽坂組合理事長で料亭「神楽坂 千月」のご主人澁谷信一郎氏にいらして頂き、粋なまちづくり倶楽部副理事長日置圭子さんの司会で進行していきました。元芸妓さんでいらしたお二人は今でも色っぽくて綺麗。着物が似合うとってもしっとりとした素敵な女性でした。
女将さんや澁谷さんの楽しいお話で会場はなごやかムードの中進んでいきます。特に女将たちのお客様との“恋バナ”には皆さん興味深深!大いに盛り上がりました。また着物を素敵に着こなすワンポイントアドバイスから、花柳界ならではの「お座敷でのご祝儀の頂き方(着物姿の襟足に入れてもらうのですって!)」などいつまでもお話は尽きませんでした。
その後は芸妓さんによる「お座敷舞踊」と「お座敷遊び」です。てい子姐さんの三味線となほみ姐さんの唄に合わせての千佳さん由良子さんの素敵な踊りにお客様もため息ものでした。

「お座敷遊び」は「虎々(トラトラ)」です。  千佳さん由良子さんのデモンストレーションの後お客様から男性と女性が一名づつ参加されて、それもまた盛り上がりました。

トークショーのあとには女将さんと澁谷さんに、踊りのあとには芸妓さんに、それぞれ会場からの質問コーナーが設けられました。今回もたくさんの質問が寄せられていました。

第1回 神楽坂料亭主人と芸者さんから教わる“花柳界入門”

2006.02.25(土)

 2月25日、毘沙門天善国寺にて「花柳界入門講座」が開かれました。予定人数を大幅に上回る大盛況ぶりで若い人からお年寄りまで様々な人の参加がありました。お座敷講座ということでしょうか素敵なお着物で観覧している方も多く目にした今回の講座ですが、サプライズゲストとして新宿区長、中山弘子氏がお忙しい中いらしてくれました。またNHK、朝日新聞といったメディアも多く入っており、各方面からも注目されていたことが伺えます。そのような中花柳界独特の文化について楽しんだひとときでした。

 まず粋なまちづくり倶楽部、副理事長日置圭子さんによる「花柳界とはどういうもの?」「花柳界から日本文化について教えてもらう」という今回の趣旨の説明の後、東京神楽坂組合理事長であり70年続く料亭「神楽坂 千月」のご主人澁谷信一郎氏のお話からスタートです。「花柳界の歴史・芸妓の歴史・花柳界の仕組み」について詳しく楽しく解説がありました。また初めて料亭に行く方法の説明は皆さん興味深い内容だったのではないでしょうか。



 その後は神楽坂芸妓さんによる踊りのご披露がありました。夏栄さんの小唄とぼたんさんのお三味線に合わせて、真由美さんと琴乃さんが素敵な踊りにお客様も拍手喝采でした。琴乃さんは黒の正装のお着物で出演してくれました。踊りの後は芸妓さんによる質問コーナーでこれもまた大盛り上がりで続々と質問が寄せられていました。その中に「花柳界に今入りたい人はどのくらいいますか?現状はどうですか?」というものがありました。近年は若い人の希望が増えているようです。現状としてはそういった新しい芸者さんが活躍していますが、かつて昭和30年代には約80軒の料亭に200名以上の芸妓衆がいた神楽坂。それが現在は9軒の料亭に約30名だそうです。澁谷さん曰く「花柳界が好きだからこれからも料亭をずっと続けて行きたい。」とお話してくれました。

神楽坂の底力の一つとしての花柳界です。また東京都内に残る数少ない花柳界を神楽坂では守っていかなければその本当の魅力を保ち続けることはできないと強く感じました。そして、日本人がいつまでも忘れずにいたい伝統の文化、“おもてなしの心”“しつらえの作法”を次代に伝えることにつながることだと思います。